『法華経』に学ぶ
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法ぽうへも伝つたはるべからず(釈尊の教えがあったとしても、教え=法がひとり伝わることはなく、僧侶が信心を起こし、これを真摯に学び、そして人々に語り伝えなければ、釈尊無き後の世に伝わることは無い)」と訓戒下さいました。これらの言葉を思うとき、不遜ながら、学者や  研究者でなければ語る資格は無い、あるいは語るべきではない、と判断するのは、教主釈尊や日蓮聖人の「この経を受持し、弘めよ」という遺命に反する行為とも解せられます。もちろん、浅学非才である私が、先師先学の言葉に教えを請うことなく、学問的根拠を持たずに、いたずらに持論を展開することは慎まなければなりません。それこそ『法華経』に傷をつけることになりますから、日蓮聖人をはじめ先師先学の言葉に学びながら進めたいと思います。 さて、インドで発生した仏教が、中国大陸、朝鮮粋ずい』には「数しば々しば経きょう王おうを写す」と、『法華経』を経半島を経て日本に伝来したのは、飛鳥時代欽明天皇(五一〇―五七一年)の頃といわれています。そして、六〇六年には聖徳太子(五七四―六二二年)が『法華経』を講じたことが『日本書紀』に記されていますから、遅くともその頃には、日本に『法華経』が伝来していたと考えられています。文学の世界を一瞥しますと『今昔物語』や清少納言(九六六頃―一〇二五年頃)の『枕草子』、鴨長明(一一五五―一二一六年)の『方丈記』等といった有名な作品にも『法華経』の名前を見ることができます。また、平安時代の漢詩集『本ほん朝ちょう文もん王と表現していることが確認できます。近代においては、「雨ニモマケズ」という詩で有名な、童話作家でもある宮沢賢治(一八九六―一九三三年)が、法華経信仰を基盤とした作品を書いています。 さて、仏教界においては、先述の聖徳太子に続-2-

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