『法華経』に学ぶ
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樹きを観じまたき経ょうぎ行ょう宜ぎ」といいます。聞きなれない難しい言葉ですが天台大師が「釈尊の本意(真実の教え)は『法華経』で明かされる」ということを「一代五時」をもって決定づけられた、とお話し致しました。繰り返しになりますが「長者窮子の喩え」を踏まえて、もう少し詳しく見てみましょう。・華厳時三十歳で菩提樹の下でお悟りをお開きになられた釈尊は、二十一日間で『華厳経』をお説きになられました。そのことについて『方便品』には「我はじめ道場に坐しして三さん七しち日の中に於て」とあります。これを「擬ぎ「擬」には「はかる、おしはかる」という意味があり、「宜」には「よろしい、ふさわしい」といった意味があります。すなわち、釈尊がお悟りの内容を試みに説かれ、弟子の理解度を試されたことを意味するのです。さて、この説法の内容はあまりにも高度で、弟子の理解度をはるかに超越したものでした。聞いている弟子たちはまだまだ未熟でしたから、まるで釈尊の説法を理解することができなかったのです。そのことを長者窮子の喩えでは、長者が遣わした召使に捕らえられた窮子が、恐れおののき悶絶し、地に倒れて失神したこと、そして、冷水を浴びせられて目覚め、慌てて長者の屋敷から逃げ去った場面として描かれています。釈尊の本意を弟子が理解できないままでは困り     ますから、・阿含時釈尊は十二年間にわたり『阿含経』の説法をなされました。これを「誘ゆう引いん」といいますが、長者が再度二人の召使を遣わして窮子を「誘」い、仕事(汚物掃除)を与えて屋敷に「引」き入れた状況をいいます。信解品第四④-100-

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