『法華経』に学ぶ
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るすべての成仏が明かされたのです。これを「開かい一されることを意味します。長者窮子の喩えでは、窮子は長者の実子であり、長者は窮子の実父であることが明かされ、父の所有する財産すべてが子に与えられた場面として描かれています。私たちは、長者窮子の喩え、そして一代五時をたよりに、釈尊が弟子の能力に合わせて、段階を踏んだ教化方法を用いられ、最後に真実の教え、一仏乗=『法華経』を説かれることが確認できました。ところで釈尊は、ご入滅になられる一日一夜でょ    『涅槃経』をお説きになられましたが『涅槃経』は『捃くん拾じ経きう』ともいわれます。「捃拾」とは「拾いあげる」という意味ですから、今までの復習、あるいは補講として『涅槃経』が説かれたと理解できます。ありません。つまり、四大声聞たちは、小乗の教えを経て大乗の教えを学び、大乗を志向するまでになりましたが、それでも依然として「菩薩になろう」との思いを抱くこともなく、小乗の悟りに止まっていたのでした。それは、仏の智慧はまだ頂戴できていない、ということを意味しています。しばらくして長者は、窮子の心が穏やかになり大志を抱いていること、さらには、過去の愚行を悔いていることも知りました。つまり釈尊の四十余年にわたる教化を経て、四大声聞たちに『法華経』を受け入れる機根(能力)が整ったことを意味します。そこで、ついに釈尊は、・法華涅槃時『法華経』の幕開きの経典『無量義経』で「今までの四十余年間(華厳時~般若時)の説法は、真実を顕していない」と宣言され、ご自身の本意、真実の教えである『法華経』を八年かけて明かされました。この『法華経』で釈尊の真意・真実の悟りが語り尽くされ、生きとし生け会え」といいますが、釈尊の教えは『法華経』に統ゅう-103-

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