『法華経』に学ぶ
112/188

釈尊がさまざまな手立て(方便)を用いられて段階を経ながら弟子を教化し、悟りに導かれることは、すでに『方便品』で明らかにされています。また、そのことについては第九章の『授学無学人記品』まで、表現を変えてさまざまな方法(法説周、譬喩説周、因縁説周=三周説法)で明かされています。なかでもことのほか詳細に明かされたのが、『信解品』で四大声聞たちが述べた物語、すなわち「長者窮子の喩え」です。 『信解品』は『譬喩品』の「三車火宅の喩え」を理解した四大声聞の告白ですから、釈尊の説法(言葉)ではなく、弟子の告白(言葉)であることが確認できます。先章『譬喩品』の前半部分では『方便品』を拝聴した舎利弗が、釈尊にその理解の内「き教ょう相そう判はん釈じく」を略した言葉で、「教判」あるいは容を述べましたが、『法華経』は釈尊が弟子に対して一方的に説法されるのではなく、説法後に弟子たちがその理解を述べるという形式で展開していきます。つまりそこには釈尊と弟子たちとの対話、師匠と弟子との交流がみられるのです。ところで天台大師は『法華経』と他の経典を比較検討されて『法華経』が他の経典に勝れている理由を三つ挙げておられます。これを「三種教相」といい、それはの三つの教相をいいます。先号に紹介した「一代五時」も教相の一つに数えられますが、教相とは「判教」ともいいます。天台大師は教相について「教とは聖人下に被こうむらしむるの言也。相とは同異を分別する也」と解説下さいました。すなわち「教」化け導どう(道)の始終不始終の相根性の融不融の相師弟の遠おん近ごん不ふ遠おん近ごんの相信解品第四⑤-104-   ㈢㈡㈠   ゃ  

元のページ  ../index.html#112

このブックを見る