『法華経』に学ぶ
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とは釈尊が発せられたお言葉、つまり説法(経典)のことで、「相」とは説法がなされた時期や形式、さらには意味や内容などによって分類し、教えの浅深、勝劣を判断すること、一言でいえば、違い目を明らかにすることです。たとえば、顔に表れたものを人相、手に表れたものを手相といいますが、教相は「教えのすがた、特色、特徴」などと解釈しても差し支えないでしょう。教相は宗派成立の必須要件にあたりますから、  法華経にある、ということを主張する根拠となり『法華経』を絶対的な拠どころとされた天台大師や日蓮聖人のお立場からいえば、法華経と他の経に説かれる法門の違い目を明確にし、釈尊の真意はます。 さて、第一の教相「根性の融不融の相」は、『信解品』の「長者窮子の喩え」を根拠に立てられたもので「融」には「とける。とかす。固体が液体になる」また「とおる。通じる。流通する」さらには「とけて一つになる」といった意味があります。すなわち『法華経』は、釈尊の巧みな導きにより弟子は機根(能力)が調えられ、小乗から権大乗へ、権大乗から実大乗=法華経を聴聞できるまでになりました。つまり釈尊と弟子との融合(釈尊の本意を仏弟子が理解できる)が看取できるのですが、他の経典では、弟子の機根は未熟のままで釈尊の本意を受け入れることができず、釈尊と融合することがなく「不融」のまま、つまり「親の心、子知らず」で釈尊は本意を語られることはなく、弟子は釈尊の本意を知ることができないことを意味します。ところで釈尊が「長者窮子の喩え」のように弟子を導かれることは、何ら特別のことではなく、ごくあたり前で不思議が無いように思われるかもしれません。しかし天台大師は、このような教化方法が施されるのは『法華経』にかぎり、他の経典でそのような導きが施されることはなく、『法華-105-

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