『法華経』に学ぶ
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たことを再度告白しますが、その中で釈尊に頂戴した恩の深さ、そしてその恩に報いることの困難について述べた言葉を訊ねておきましょう。 「私たちは釈尊に対して大恩があります。それは釈尊が、めったにないまことに希な手立てを駆使して、私たちを憐れみ導き教化くださり、大いなる利益を与えて下さるからです。この大恩を知った時、たとえ無量、億、劫という想像できないほどの時間を費やしたとしても、いったい誰がこの大恩に報いることができるのでしょうか。手足を使って供養を捧げ、そしてお給仕申し上げても、また、頭の頂を地につけて礼拝し、ありとあらゆるものをすべて供養したとしても、そのご恩に報いることは到底適わないでしょう。 釈尊を頭上にいただき、両肩に担い、ガンジス川の砂の数ほど時間をかけて、心を尽くして敬いの心を捧げても、まるで報いることはできません」 この摩訶迦葉の言葉に触れて理解できることは、釈尊の大恩に報いることは、はかりしれない時間をかけて、いかなる供養を捧げ、そしてまた、いかにご給仕もうしあげても適わないこと。つまりそれは、釈尊の慈愛は私たちの常識、理解あるいは想像を超えた広大深淵なものであることだと思います。さて『信解品』の末文は、つぎの言葉で締めくくられますが、この言葉が四大声聞たちの領解の結論といえます。「釈尊は、生きとし生けるものの過去世を知り、    「於一乗道さらに各々の能力が十分なのか、それとも不十分なのかを知り、さまざまに考慮下さったのちに、真実の教えはただ一つなのですが、その教えに導くための手立てとして、適宜方便の説法をなさるのです」きに随って三と説きたもう)」随宜説三(一乗の道において、宜し-111-

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