『法華経』に学ぶ
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 『信解品』は、釈尊の間断することのない導きを知った仏弟子が、釈尊を讃歎しその大恩に報ずることの困難さ、そして「釈尊の方便説法の目的は、真実の教え『法華経』を説かれることにあると知りました」と告白して幕を閉じました。釈尊の間断なき教化については他の章でも随所に明かされていますが、みなさまにとって馴染みが深いと思われる『自我偈』にそのことについて訊ねてみますと、末文の「毎自作是念生 得入無上道 速成就仏身(毎つねに自らこの念をなす、何を以てか衆生をして無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得せしめんと)」とのお言葉に出会うことができます。すなわち釈尊は、私たちに対して誰から懇請されたわけでもなく、    釈尊御おん自らが「私はいつでも、何としてでも、あなた達を無上道に導き入れたいと考えているのです。そしてそれは、一刻でも早く、速やかに、即座に仏身を得させてやりたいと考えているのです」と仰っておられるのです。更に『自我偈』を注意深く拝読しますと釈尊は「我、常に法を説いて」「我、常にここに住して」「常にここにあって」等と「我」、「常」と繰り返し仰います。つまり「常」に存在され「常」に教えを説かれる釈尊が「衆生」「汝等」と頻繁に私たちに語りかけ下さっていることに気が付くのです。ひとことで言えば、釈尊は「いつでも、どこでも以何令衆わたし達のことを救ってやりたい」と願っておられるということですが、釈尊を表す「我」、その存在と活動を表す「常」、そして私たちを表す「衆生」「汝等」という文字の多さに改めて驚くと同時に「常(不滅)にここに居られる釈尊が、常(間断なく)に衆生(私たち)を最高の教えに導き入薬草喩品第五①-112-

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