『法華経』に学ぶ
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れたい」と願っておられることにかた忝じけなさと大恩を感じずにはいられません。以前にも学びましたが、経典を単なる文字の羅列としてとらえたり、まるで意味を弁えずにいて、呪文のように読誦することで不思議な力が宿ったり、あるいは不思議な出来事が起こると考えたりすることは、間違いも甚だしいことで、そのような認識からは釈尊の間断なき教化の有難さ、そしてその広大無辺な慈悲と、私たちが受け続けている大恩について知ることは適わないと思うのです。日蓮聖人は「『法華経』の文字は、釈尊の御みこ意ころが文字となって表れたものです。ですから、『法華経』を読む人は単なる文字と思ってはなりません。『法華経』は釈尊の御み声こえですし、血肉の具わった釈尊そのものなのです」とご教示くださいます。さらには「し生ょう身しんの仏」「生身の釈迦如来」等の表現も見えますから、日蓮聖人は『法華経』を単なる経典、悟りに至る手立ての書、というような認識ではなく「人格的な釈尊」あるいは「肉身を持った釈尊」として受け止めておられるのです。このような『法華経』は釈尊、釈尊は『法華経』とのご教示は枚挙にいとまがありません。日蓮聖人にとって『法華経』は釈尊そのものであって、読誦の声は釈尊が語りかけられるお言葉だと認識されておられるのです。恐らくこのような認識や信仰は、仏教史上では日蓮聖人お一人だと思われます。さてそれでは、第五章の『薬草喩品』に入って   の後半(譬喩説周の正説段)に展開された「三車いきます。先章の『信解品』は、第三章『譬喩品』火宅の喩え」を拝聴した仏弟子が、その領解した内容を「長者窮子の喩え」に託して、釈尊に告白した物語であることはすでに学びました。 この『薬草喩品』は仏弟子の領解、すなわち仏弟子が述べた『信解品』をお聞きになられた釈尊が、その理解の内容の正しさを証明される段、つまり譬喩説周のじ述ゅつ成じょう段へと展開していきます。-113-

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