『法華経』に学ぶ
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音おん声じうによる説法を意味しています。その説法に導普段目にすることのない字ですが「くさむら」と読み、多くの草が繁茂しているところをいいます。そして樹木が生い茂っているところを「林」ということは、周知のことと思います。さて、湧きおこる大地を覆う厚い雲は、釈尊がこの世に出現されることを喩えています。経文には「密みっ雲つん弥み布ふして徧あまねく三千大千世界に覆い、一時に等しく澍そそぐ」とありますが、釈尊の広大深淵な慈悲が全世界を覆うことを意味し、その雲から降り澍そそぐ(注ぐ)潤いとめぐみの雨は、生きとし生けるものを導き、そして救おうとされる釈尊の大だいかれる弟子、すなわち私たちは、雨によって成育を遂げる三草二木に喩えられています。 さて大地に降り注ぐ雨は、大地に繁茂する草木を平等に潤します。大きな草木は根、茎、枝、葉も大きく大量の水分や養分を吸収できますが、小さな草木は大きな草木に比べて吸収量は少なくなります。それでも草木は、その種類や大小の性質に従って成育を遂げて花を咲かせ、実をつけるのです。つまり、大地に繁茂する草木の種類や大きさによって、吸収量に違いが生じるのですが、最終的にすべての草木は、花を咲かせ実をつけるのです。釈尊の説法は、声聞や縁覚、そして菩薩といっょ  されています。つまり、釈尊の説法が同じあり方、た差別があるわけでなく、すべての人を仏の世界へと導く一仏乗のみで、経文には「一地の所生、一雨の所しょ潤にん」「如来の説法は、一相一味なり」と示同じ味わいであっても、説法を拝聴する側、受け取る側、つまり仏弟子の能力の差がさまざまにあって、そこに差異が生じるのです。そこで釈尊は、生きとし生けるものすべてを悟りの世界へ導くために、さまざまな手立て(方便)を施されて説法なさるのです。 さてこのことは、釈尊のみが知り得ることで、-117-

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