『法華経』に学ぶ
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仏弟子たち、すなわち私たちは知る由もありません。経文には「如来の法を聞いて、若しは持ち読誦し説の如く修行するに、得る所の功徳自ら覚知せず」とありますが、そのことは『譬喩品』の「三車火宅の喩え」で、父親が子供たちを火宅から導き出し、子供たちは望外の大白牛車を与えられたこと、そして『信解品』の「長者窮子の喩え」では、長者が窮子に仕事を与え、最後に窮子は求めてもいない一切の財物を、自然に与えられたことからも知ることができます。ところで、草木は私たちを喩えている、と学びましたが、その草木の根は「信」を、茎は「戒」、枝は「定」、葉は「慧」を表しています。枝葉が生い茂るためには、丈夫で立派な根が張っていなければなりません。「根本、根源」という言葉があるように「根」とは、「もと、はじめ、みなもと」といった意味があります。「信」の大切さについては、過去にも学びましたが、教えを学ぶ上においては、まず初めに「信」がなければなりません。「信」がスタートになります。この「信」から、釈尊の戒めを守るという「戒」が生じ、そして、迷いを生じない、いかなることにも動じないという「定」に落ち着き、仏の智慧、「慧」が頂戴できることになるのです。戒を持つ、あるいは戒を守る、平易に言えば、  その「信」から発生した「戒」で、その「戒」を規則を守るということは、ともすれば苦痛に感じたり、窮屈に感じたりすることもあるかも知れません。しかし「信」というものを正しく確立し、持つことによって仏の智慧が頂戴できるのであれば、苦痛であったり窮屈に感じたりすることはないでしょうし、むしろ進んで、あるいは喜んで持つという行為にでると思われます。 孔子の言葉に「これを知る者は、これを好む者に如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず」とあります。つまり、道を求めること、学-118-

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