『法華経』に学ぶ
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ぶことについて、ただ知っているというだけの人は、それを好きな人には及ばない。また、それを好きな人も、それを楽しむ人には及ばない、というのです。『法華経』に学ぶ私たちは、知識として学ぶのではなく、学ぶことを好きになり、そして学ぶことを楽しむ、あるいは学ぶことに楽しみを感じなければならないでしょう。もちろんここでいう「楽しむ」とは、世俗的な「楽しむ」ではありません。日蓮聖人のお言葉にも、釈尊と仏弟子が集う霊鷲山に詣でて「我等も其数に列つらなりて遊ゆう戯げし楽しむべき」とありますが、宗教的に「楽しむ」ということで「心が豊かになる」、「心が満ち足りる」といった意味であることは論を俟ちません。 さて、釈尊の広大深淵な慈悲の雨は、説法の大音声となって平等に私たちに注がれます。釈尊は迦葉に告げられました。「私は、未だ度せざる者は度せしめ、未だ解せざる者は解せしめ、未だ安ぜざる者は安ぜしめ、未だ涅槃せざる者は涅槃を得せしめたいと願っています」この箇所は「四弘誓願の文」と称されていますが、釈尊は、いまだに迷いの世界をさまよい、悟りの世界へ到達していない人を何としてでも救い、そして悟りの世界へ渡らせたい。また、いまだに煩悩に束縛されている人には、その束縛を解いて、解脱という心の自由な境地へ到達させてやりたい。そして、いまだに修行の道に安らいでいない人には、何としてでも安らかにさせたい。さらには、いまだに涅槃という悟りに至っていない人には、涅槃を得させたいと願っておられるのです。私たちは、この文=釈尊のお言葉に触れた時に、大慈悲を注いで下さる釈尊に対するありがたさや、かた忝じけなさを感じずにはいられません。   -119-

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