『法華経』に学ぶ
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ることができるのです。」さて、この中で注目すべきことは、教えを聞きそして正しく学ぶことによって、現世(現在世)はもちろんのこと、死後つまり来世(未来世)も同様に安らかであることが約束されているということです。すなわちここに現在世と未来世、二世にわたって安穏であることが保証、約束されているのです。経文には「現世安穏は安穏にして、後生は善処に生ず)」とありますが、釈尊は、私たちの現在世のみならず、未来世にまでも大慈悲を注がれていることが理解できます。さらに、現在世は過去世からみれば未来世に相当しますから、私たちは過去世、現在世、未来世と三世にわたり、釈尊とともにあり、釈尊の教化、大慈悲を間断なく受けているといえるでしょう。そのことは『如来寿量品』では「常説法教化、常住此説法、我常住於此」等と随所に示されています。後生善処(現世    ところで、日蓮聖人のご生涯を学びますと、御年三十二歳の立教開宗まではともかくとして、以降のご生涯は「大難四箇度、小難数知れず」と表現されるように、命の危険に及ぶ大きな法難が四度、悪口や陰口、嫌がらせなどの小さな法難が、数多くあったことがわかります。そうすると、とても「現世安穏」とは言えないような気がしますし、現世が安穏でないならば「後生善処」も危ぶまれます。さて、日蓮聖人の信仰が偽りだったのでしょうか、それとも法華経の文が偽りだったのでしょうか。『法華経』の第十章「法師品」以降には、お釈迦様がお亡くなりになられた後、二千年を過ぎた末法と言われる時代(日本では永承七(一〇五二)年以降が末法とされています)に、『法華経』を弘める人は、数多くの難に遭うことが予言されています。この難は法(教え)を弘めることによって受ける難であるところから「法難」と称しています。-121-

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