『法華経』に学ぶ
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法難について『法師品』(欲令衆)を訊ねてみますと「悪、刀杖および瓦石を加えん」とありますし、さらに第十三章『勧持品』では、「悪口罵詈」悪口を言われたり、罵られたりする、「及加刀杖」刀で切りつけられたり、杖で打ちのめされたりする、「数さく数さく見けん擯ひん出ずい二度以上住まいを追い出される、とあります。日蓮聖人の遭われた法難は、経文と見事なまでに合致しますが、その一方で「現世安穏」の経文とはかけ離れているように感じます。否、かけ離れている、と断言しても過言ではないようにさえ感じます。現に当時のお弟子やご信者の中には「経文には現世安穏と説かれているけれども、お師匠様のお姿はどうだろう。悪口を言われ、罵られ、草庵は焼打ちにされ、さらには額には刀傷を受けられた。そして未遂ではあったものの斬首の刑に処せられ、二度に及ぶ島流しに遭われた。これは、経文が偽りであるのか、お師匠様の信仰のありか遠離於塔寺」国家権力によって無む為い徒と食しくのような生活を送らない、ということだたに間違いがあるのか」そのように考える人たちが出てきました。そしてついには、日蓮聖人の信仰のありかたが間違っている、との結論に至り「法華経の信仰を捨てるわけではありませんが、お師匠さまと違う道を歩みます」と日蓮聖人の許を去っていったのです。しかし、日蓮聖人は、彼らの言い分をお認めになられませんでした。「退転せり」すなわち「法華経の信心を捨てた」と断罪なさいました。そして、ご自身が示す信仰のほかは、まったく利益が無い、これよりほかに信仰のあり方はない「日蓮のほか、別の才覚無益なり」と訓戒、論断なされました。さてそうすると、日蓮聖人が仰る「現世安穏」とは、一般的に考える穏やかという意味ではなさそうです。恐らくそれは、どんな困難にも左右されない境地にいるということだと思われますし、また、たとえ穏やかであったとしても、酔すい生せい夢む死し、-122-  ょ  

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