『法華経』に学ぶ
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ながら理解を述べましたが、仮に歓喜がないまま理解だけを述べていたとしたならば、恐らく釈尊は、その内容をお認めにならなかったと思われます。そのことについては『方便品』の舞台で、舎利弗が釈尊に説法を懇請した言葉の中に「説法を拝聴したならば大歓喜を生ずるでありましょう」とあることからも推測されます。そうすると、私たちが『法華経』や日蓮大聖人の教えを学ぶときや、取り次いで話そうとするときにも当然、歓喜があるはずで、歓喜がその原動力になるということを重ねて確認しておきたいと思います。それでは詩句を訊ねてまいりましょう。 「仏がこの世に出現したならば、生きとし生けるものたちのために、それぞれの能力に応じてさまざまに教えを説きます」 「如来の存在は尊く貴重であって、その智慧は深遠で深淵です。しかし、その智慧をすぐに説き明かすことはありません。しばらくは、それぞれの弟子の能力に応じた方便の教えを説いて導きます。そして育てあげたのちに真実を明かすのです」「如来はこの世で最も尊い存在です。その出現するさまは、大雲が湧きいでるようすと似ています。その雲から降り注ぐ雨が大地を潤し、繁茂する草木を育てるように、如来もさまざまに教えを説き、心身ともに疲れ果てている生きとし生けるもの達すべてに潤いを与え、一切の苦しみから離脱させ、そして最高の幸せと喜びを与えるのです」「真実の教えはただ一つです。私は、生きとし生   依怙贔屓をするとか、好ましいとか、好ましくなけるものすべてを平等に見ています。ですから、いなどという分け隔てはありません。私には貪むさぼりや執着もありません。ですから、教えを説く際に障害があったりすることもないのです。常に平等に教えを説きつづけています。それは一人のために教えを説くときも、大勢の人に教えを説くときも、まるで変わることはありません」-125-

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