『法華経』に学ぶ
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釈尊は、私たちを常に平等にご覧になられ、大慈悲を注ぎ導いて下さいます。『法華経』は「平等大慧」とも称せられますが、それは『法華経』に釈尊の大智慧と大慈悲が説き明かされ、それらが平等に、間断なく私たちに注がれていることを意味します。釈尊は、途切れることのない教化について「疲   れることはない」と仰います。経文には「常に法を演説して、曽かつて他事なし、去来坐立、終に疲ひ厭えんせず」とあります。つまり、教えを説いてありとあらゆる人々を救うことのほかは、一切何も考えないで全力を尽くし教えを説き、そして、教えを説き終えて去る時も、教えを説きに来るときも、疲れたとか厭になることはない、と仰るのです。同様のことは第十五章『従地涌出品』にも「如来は安楽にして、少病少悩なり。もろもろの衆生等は、化度すべきこと易し。疲労あることなし」とのお言葉がありますし、第八章『五百弟子受記品』には、富楼那の過去世を称えたお言葉に「彼の説法は、多くの人に歓喜を与えます。そして、長年にわたる説法でも疲れを覚えることはなく、如来の仏事を補佐してきたのです」ともあります。ところで孔子は自身を「黙してこれを識しるし、学びて厭いとわず、人を誨おしえて倦うまず。何か我に有らんや」と評しました。つまり、静かに学び、心にとどめ、学ぶことが嫌になるとか、懈け怠たい心しん(怠け心)が起こることもない。そして学んだことを人に誨えて怠らない。これらのことしか私には無いし、また私にとっては当たり前のことなのだ、ということです。「誨かい」という字は普段見慣れない字ですが、字典を紐解きますと「暁さとし教える、説き教える、専ら教える」さらには「暁してその晦かいを破るを誨という」と解説されています。「晦」とは月の末日との意味ですが「日の光を失う」という意味もありますから「晦を破る」とは、無智の暗闇を破り、智慧の光を与える、と理解できるでしょう。-126-

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