『法華経』に学ぶ
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さて、虚心にわたし自身を『法華経』という鏡に映してみると、そこには偏狭で虚栄心や猜疑心、あるいは差別的思考などに支配されている姿、さらには、まことに陳腐で当てにならない価値観を持ち、仏道とは無縁の世俗的な権威に畏怖の念を懐き、憧れている姿が映しだされます。また、こうして原稿を執筆していながらも、余念が湧くこともしばしばですし、思うように筆が進まず苦悶するだけならともかく、それを苦痛と感じて途中で投げ出したい衝動に駆られたりもするのです。およそ、釈尊や日蓮聖人の教えを学び、そしてそれを伝えようとしている人間ではない体たらく、まるで仏道を志している人間とは思えない、卑小で愚かな己の姿に、恥ずかしさや自責の念を感じると同時に、猛省せずにはいられません。 私たちは、釈尊の教化に気づくこともなく、あるいはたとえ気づいたとしても、その御心に背を向け、自身に都合のいい時にだけ耳を傾け、勝手気ままに、そして欲望のままに生きているような気がしてなりません。それでも釈尊は、どんなに愚かで無む知ち蒙もう昧まいな私たちであったとしても、見放したり教化を途中で放棄なされることはありません。さて釈尊は締めくくりに「迦葉よ、よく知りなさい。私が悟りの道について説き示すときは、さまざまな喩え話を用いるのです。これは仏の方便説法で真実ではありません。大勢の仏もまたそのように方便を用いて人々を導くのです。今あなた達に最も大切なことをお話し致しましょう。あなた達が歩むべき道は、菩薩としての道です。そうして、少しずつ修行を積んでいけば、一人も漏れることなく成仏することが適うのです」と告げられ本章は幕を閉じます。-127-    

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