『法華経』に学ぶ
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にお自のずから得たり」(『信解品』偈頌)と表現していまがっているのです。そして、そこには数えきることのできない菩薩や声聞の弟子たちが修行に励んでいて、悪事を働く人は一人もなく、たとえ魔王やその僕しもべたちがいたとしても、皆こぞって仏法を守るでしょう」釈尊は舎利弗に記別を授けられたときと同じく、迦葉すなわち光明如来が活躍する国土の名前や光明如来の寿命、そして教えが存続する時代、光徳国の様相や弟子などについて明かされ、さらに重ねて五十句、十二偈半の詩句をもって授記の内容を再説なさいました。師匠として愛弟子に記別することができた釈尊の喜びや安堵、そして授記された迦葉の喜びはいかほどでしたでしょうか。迦葉は『法華経』に出会うことのできた喜びを「無上の宝聚 求めざるすから、このたびはさらに記別を授けられ、未だかつて経験したことのない、そして味わったことのない無上の喜びで、その心は充満していたことでしょう。また、すでに授記されている舎利弗をはじめとする同門の仏弟子たちも、我がことのようにして喜んだことでしょう。とはいうものの、須菩提、迦旃延、目犍連の心境はいかほどでしたでしょうか。なぜならば、この三人は迦葉とともに「長者窮子の喩え」を述べましたが、まだ記別を受けていません。そのようすを経文には「爾の時に大目犍連、須菩提、摩訶迦旃延等、皆ことごとく悚しゅ慄りつして一心に合掌し、世尊を瞻仰して目暫くも捨てず」とあります。「爾の時」とは、釈尊が三人に先駆けて迦葉に記別を授けられ、重ねて五十句十二偈半の詩句を説き終えられた「その時」です。目連、須菩提、迦旃延の三人は悚慄して合掌し、釈尊の尊顔を瞬きもせずに仰ぎ見ていた、というのです。「悚慄」とは、普段耳にすることのない言葉ですが「恐れてびくびくする、ぞっとする、身震いをす-134-    

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