『法華経』に学ぶ
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る」といった意味があります。ここでいう「悚慄」とは、迦葉が記別を受けた姿を目の当たりにし、三人が感激して身震いしているようす、あるいは、自分たちも迦葉と同じく記別を授かることができるであろう、と期待している姿を表しているのです。そのことは、舎利弗が『譬喩品』で記別を受けた際に、他の仏弟子たちが「我等また是の如く必ずまさに作仏して」と予感したことからも理解できます。そこで目連たち三人の仏弟子は、自分たちにもょ  ぜひ授記を願いたいと切望し「偉大なる師匠釈尊よ、どうか私たちのことを哀れんでお声掛けを下さり、そして授記してくださいませ」と申し出たのでした。そして、授記を待つその心境をつぎのように告白したのです。 「甘露を以もって灑そそぐに、熱を除いてし清ょう涼りうを得るが如くならん。飢えたる国より来って、忽たちまちに大王の膳そなえに遇あわんに、心なお疑ぎ懼くを懐いて、未だ敢あえて即すなわ便ち食じきせず、もしまた王の教えを得ば、然しこうして後にすなわち敢て食せんが如く」つまり記別を授かることは、あたかも甘露が注がれて、熱悩(激しい心の苦悩)から解放され、清々しい爽快な気分に浸るようなものです。たとえばそれは、飢饉で困窮している国から来た人が、すばらしい大王の食膳を突然に提供されても、疑いの心が拭えず食べることを躊躇してしまいますが、そのようなときに大王から「食べてよい」というお言葉があれば、安心して食事ができるようなものです。と告白したのでした。そして重ねて「『あなた達も成仏することができるのです』と教えて下さいましたが、それでもなお不安や疑問を感じるのです。ですから、どうか私たちにも記別を授けて下さい。それは飢えながら大王の言葉を待って、その膳を頂戴できるようなものなのです」と、授記を懇願したのでした。-135-

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