『法華経』に学ぶ
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このようにして墨で印をつけた国の数を、数学者やその弟子たちがすべてを把握し、その数を知ることができるでしょうか」 「釈尊よ、それは不可能です」 「仏弟子たちよ、この人が墨をつけた国と、墨をつけずに通り過ぎた国とを合わせて、さらに粉々にすりつぶし、その一塵(一粒)を一劫という想像すらできない時間としましょう。大通智勝如来がお亡くなりになられてからの年数、時間は、その塵の数をはるかに超えた、無量、無辺、百、千、万、億、阿僧祇、劫なのです。あなた方には、想像を絶する過去であったとしても、わたしには如来にしか具わらない、すぐれた知見力というものがありますから、たとえそれがどんなに遠い過去のことであったとしても、まるで今日の出来事のように見ることができるのです」 この箇所を「三千塵点劫の喩え」といいます。後の第十六章『如来寿量品』には「五百億塵点劫(五百塵点劫)の喩え」が説かれていますが、両者ともに法華七喩に数えられてはいません。しかし、天台大師や妙楽大師は「三五塵点の法門」として重要視されていますし、日蓮聖人も「三五の二法」「三五塵点劫」「三千塵点劫」「五百塵点劫」「三五の塵」等と表現され、教義を学ぶ上で重要な意味をもっていることが確認できます。それは『法華経』以外の経典では明かされるこ  在って、一貫した教化を施されること等が明らかとのない、経典=法華経、教主=釈尊と仏弟子、すなわち私たちとの間には、過去世より必然的な関係にあること、さらには、釈尊は常にこの世ににされているからです。-143-

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