『法華経』に学ぶ
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います。それはまるで、甘露が灌そそがれる思いです」という仏弟子の言葉で第九章は幕を閉じます。つまり、ここで釈尊の目的は達成されたことになりますから『法華経』の説法は第九章で完結し、幕を閉じても問題はありませんでした。ところが釈尊は幕を閉じられることなく、説法をお続けになられます。以降の経文を注意深く訊ねてみますと、第十章『法師品』の冒頭に「薬王菩薩に因よせて八万の大士に告げたまわく」とあるように、釈尊が語りかけられる相手が声聞、縁覚といわれる仏弟子から菩薩に変わったことが確認できます。また、釈尊は頻繁に「如来の滅後」「吾わが滅後」「仏滅後」という言葉を発せられ、さらには「於末法中」「後五百歳広宣流布」と言われるのです。つまり釈尊は、ご自身が入滅後のこと、なかんずく末法という時代に視点をおかれるようになった、と理解できるのです。そのことについて日蓮聖人は「法華経は、その昔インドで釈尊が説かれた教えです。でもそれは、末法という時代に生きる私たちのために説かれた教えなのです」とご教示くださいます。つまり、第一章「序品」から第九章「授学無学人記品」までは、釈尊在世の衆生教化に主眼があり、第十章「法師品」から第二十八章「普賢菩薩勧發品」までは、釈尊滅後の衆生教化に主眼がある、といえるのです。そうすると、私たちの死活問題は第十章「法師品」以降にある、と考えられます。ところで『法華経』の説法は二処(霊鷲山と虚空)三会え(前ぜん霊りょう山ぜん会え、虚空会、後霊山会)といって、第一章『序品』~第十章『法師品』までが霊鷲山、第十一章『宝塔品』から第二十二章『嘱累品』までは虚空、第二十三章『薬王菩薩本事品』から第二十八章『普賢菩薩勧發品』まで再び霊鷲山で説法がなされます。 0000 0000 -145-

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