『法華経』に学ぶ
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 「末法には、聖者のような態度や振る舞いをする僭越な出家者がいます。彼らは世間から生き仏のように尊敬されていながら、世俗の名誉や地位、肩書きを熱望し、政治に携わる権力者と結びつき、私たちに迫害を加えてきますが、それをも耐え忍びます」(僭聖増上慢)さらに「『法華経』を弘めるためには、命をも惜しみません。たとえ住まいを追われることが数々あったとしても、釈尊からの要請を思うがゆえに、耐え忍びます」とその覚悟を述べたのです。仏弟子たちの一大決心と誓いの言葉に、釈尊はたいそう喜ばれ安堵なされたことでしょう。 ところが釈尊は、第十五章『従地涌出品』の冒頭で「止めておきなさい」と、にべもなくその誓いを謝絶なされたのです。『宝塔品』で三度、『提婆達多品』で二度、都合五回にわたり弘経を要請(五箇の鳳詔)した釈尊の言葉とは思えません。こ眩まばゆく金色に輝き、如来が持つ三十二の特徴を具えのことについて日蓮聖人は「一仏二言、水火のごとし」、まるで一人の釈尊から出た言葉とは思えません、と表現なさいました。続けて釈尊は「私にはもとから、ガンジス河の砂の数の六万倍もの弟子がいて、その弟子たちがその役を担うのです」と宣言なさいました。すると、突然大地が激しく揺れて地の裂け目から数えきることのできない大勢の菩薩が涌き出てきたのです。菩薩たちの体は光明を放ち、釈尊よりも立派に見えます。弥勒菩薩をはじめとする仏弟子たちは、釈尊の「私の弟子である」という言葉と、涌き出てきた菩薩の姿が釈尊よりも立派にみえることに疑問を感じて「釈尊がお悟りをお開きになられて、四十年ほどしか経過していません。その僅かな間に、これだけ大勢の弟子をどうして教育することができたのでしょうか。この大勢の菩薩を私は一人も存じ上げ-149- 

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