『法華経』に学ぶ
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解0しなさい」と四度訓誡なされ、仏弟子は四度「信0受0致します」と応えました。釈尊は仏弟子たちの心ませんし、釈尊よりも随分立派に見えます。例えるならば『父親は若く、子供が老人』と言えましょう。それでも『教化した弟子である』と言われるのであれば、私たちは信じる用意があります。しかし、未来の人たちは信じることができないでありましょう。どうか釈尊よ、未来の人たちのために、このことについて明かしてください」と懇願したのでした。この弥勒菩薩の要請に応えて説かれるのが『如  0000000000ちのために」との要請が無ければ『如来寿量品』来寿量品』です。仮に、弥勒菩薩の「未来の人たは説かれることがありませんでした。私たちは日ごろ勤行の際に「妙法蓮華経方便品第二、爾時世尊、従三昧本末究竟等。妙法蓮華経如来寿量品第十六」と流れ作業のように読んでいる傾向があると思うのですが、それではとても釈尊の思いを知ることは適いません。 ここまでの流れを一瞥しますと『宝塔品』で釈尊滅後の弘経要請がありました。『勧持品』ではそれに応えて仏弟子たちの誓いの言葉があり『従地涌出品』の冒頭で釈尊は、仏弟子の誓いを謝絶され、地の底から大勢の弟子(地涌の菩薩)が登場し、この弟子たちが滅後の弘経に務めるというのです。『如来寿量品』が説かれるまでには、そのような背景、経緯があった、すなわち先号お話した「起顕竟」の「顕」に(『従地涌出品』とともに)相当する、ということを弁えなければならないと思うのです。さて、師匠である釈尊よりも立派に見える地の底から涌き出た無数の菩薩たち。この菩薩たちを「四十年という僅かな時間で、どのようにして導いてこられたのか」について明かされるのが第十六章『如来寿量品』です。冒頭で釈尊は仏弟子に「信0構えに満足されて「私が持つ不思議な力について説-150-

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