『法華経』に学ぶ
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が解説下さった『法華経』を学ぶことが必須です。これを外せば、十人寄れば十通りの大聖人、そして十通りの『法華経』が出来上がりますので注意しなければなりません。私たちにとって『法華経』を離れて大聖人は無く、大聖人を離れて『法華経』は無い、ということを造ぞう次じ顛てん沛ぱい忘れてはなりません。「強盛の菩提心を起こし」経文色読(法難)により「経文に我が身符合せ」られた大聖人。値難をもって「仏語を実語」とせられた大聖人を学ぶことが必須です。ところで図表には記していませんが、大聖人の教義や思想を学ぶ上で、佐渡流罪以前と佐渡流罪以降、さらには『法華経』の三段分科と同じように序分(佐渡流罪まで)、正宗分(佐渡)、流通分(身延)として学ぶ注意が必要です。・智者から信者へ、信者から持経者へ、そして持経者から行者へ 大聖人の出発は「日本第一の智者」となることでした。二十年間の求教、求道で「智者」となられた大聖人は、法華経の「信者」となられ、ご自身が「法華経の行者」「上行菩薩」すなわち仏使であるとの自覚を持たれます。そして立教開宗を契機に「求教者、求道者」から「弘経者、弘道者」としての道を歩まれます。『不軽品』を手本に弘経された大聖人は『勧持品』に予言された法難を悉く色読されたのち『開目抄』、『本尊抄』を書されます。さらには、大曼荼羅ご本尊を図顕せられ、「本化上行菩薩」「仏使」「法華経の行者」の本分を遺憾なく発揮されま    した。「行者」という言葉から、断食や断眠、あるいは水をかぶったり、滝に打たれたり等を想起される方もおられますが、そうではありません。この「行者」の意味は、法華経の実行者、実現者、体現者という意味で「斯人行世間」の「行」に相当します。「斯人」つまり付嘱を受けた大聖人が「世間に-157-

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