『法華経』に学ぶ
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行じて、衆生の闇を滅する」ということです。・上行自覚の時と上行公表の時上行自覚は比叡山下山の頃かと推測されますが、どんなに遅くとも三十二歳の立教開宗の時には存しました。ところが、その証明や資格には経文色読、すなわち法難が必須要件でしたから佐渡流罪を経て公表されました。ところで、大聖人は「私たちの偉大な先輩」と認識されている方がおられますが、とんでもない誤認識です。「日蓮を用ぬるとも、悪しく敬はば国亡ぶべし」と大聖人が訓戒されるところです。大聖人と私たちはまるで違います。資格においてはまるで違いますが、主義、主張は同じでなければなりません。主義、主張を違えるとそれは「獅子身中の虫」あるいは「城者として城を破る」として断罪されてしまいます。 誤解を恐れずに、叱責覚悟の上で言いますと「私たちの為の大聖人」或いは「宗門の為の大聖人」と思考するより「大聖人の為の私たち」「大聖人の為の宗門」と思考することが肝心だと思います。これらの図表は「寿量品の設計図」或いは「寿量品の見取図」とでもいえるでしょうか。天台大師が『宝塔品』で涌出した宝塔を「証前起後の宝塔」と解釈されたことを踏襲された大聖人は、「宝塔の涌出、そして釈迦仏、多宝仏、十方分身諸仏(三仏)が揃い、三箇の勅宣があったことから『宝塔品』は『寿量品』の遠序(遠い序分)」と解説くださいました。つまり大聖人は「迹門、本門」という天台大師の科段を依用されながらも「起顕竟」という独自の法華経観で『寿量品』を位置づけておられるのです。そうしますと、私たちが『寿量品』を学ぶ際には『宝塔品』から紐解く必要があることは至極当然のことと思います。そのことから『寿量品』に至るまでの経『妙法蓮華経如来寿量品第十六』①、②、③-158-      

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