『法華経』に学ぶ
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ては、この五十年の間に説かれた教えで、これらの経典を総称して「一切経」或いは「八万法蔵」「八万四千法門」等といいます。天台大師著述の『法ほっ華け玄げん義ぎ』を紐解きますと「余ょ ょょょょ経を弘むるには、き教ょう相そうを明さざれども義に於てい傷たむることなし、若し法華を弘むるには、教相を明さずんば文もん義ぎ欠くること有り」とあります。『法華経』以外の経典は「教相」を明らかにしなくとも理解できるが『法華経』を理解するには「教相」を明かさなければ、理解できない、また釈尊の本意を知ることはできない、というのです。「教相」とは「教とは聖人下しもに被こうむらしむるの言ごん也。相とは同異を分別する也」とあります。「教」とは、聖人=釈尊が、仏弟子に語り掛けられる言葉、つまりは、経典であり「相」とは、違い目ということです。 さて『法華経』は五十年説法中、最晩年の七十二歳より八年をかけて、インドのり霊ょう鷲じゅ山せんという山で説かれた教えです。釈尊は『法華経』を説かれる直前に『無む量りょう義ぎ経きう』という教えを説かれます。この経典は『法華経』の幕開きとしての位置づけで、一巻三章からなり『開かい経きう』とも呼ばれます。ちなみに『結けっ経きう』は『仏ぶっ説せつ観かん普ふ賢げん菩ぼ薩さつ行ぎょう法ぼう経きう』一巻にあたり、開経『無量義経』一巻、本経『法華経』八巻、結経『仏説観普賢菩薩行法経』一巻、合わせて十巻を「一部十巻」「法華経十巻」「法華三部経」等と称します。『無量義経説法品第二』の中で釈尊は、「諸の衆生種に法を説きき。種種に法を説くこと方ほう便べん力りきを以てす。四十余年には未だ真実を顕さず」と驚くべき言葉を発せられます。「性しう」とは本来備わる先天的欲求、「欲」とは後天的欲求をいいます。 つまり、三十歳から七十二歳までの四十余年の説法(教え)は、釈尊ご自身の本意を真正面から-9-の し性ょう欲よく不ふ同どうなることを知れり。性欲不同なれば種

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