『法華経』に学ぶ
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建長五年四月二十八日、安房国東條郷清澄寺道善之房持仏堂の南面にして、浄円房と申者並に少々大衆にこれを申しはじめて、其後二十余年が間退転なく申。或は所を追出され、或は流罪等、昔は聞く不軽菩薩の杖木等。今は見る日蓮が刀剣に当る事を諸の無智の人有つて悪口罵詈す等云云。日蓮この経文に当れり。汝等なんぞこの経文に入らざる。及加刀杖者等と云云。日蓮はこの経文を読めり。汝等なんぞこの経文を読まざる。常在大衆中欲毀我等過等云云。向国王大臣婆羅門居士等云云。悪口而顰蹙数数見擯出。数数とは度々なり。日蓮擯出たびたび。流罪は二度なり。法華経は三世説法の儀式なり。過去の不軽品は今の勧持品。今の勧持品は過去の不軽品なり。今の勧持品は未来不軽品たるべし。その時は日蓮はすなわち不軽菩薩たるべし。龍口法難観心本尊抄赦免状鎌倉発身延発ご入滅▼法華経「勧持品第十三」に説く迫害を色読・悪口罵詈・及加刀杖「小松原法難・龍口法難」(私難)・数々見擯出「伊豆法難・佐渡法難」(王難)・遠離於塔寺「清澄寺追放・松葉谷法難」(私難)『清澄寺大衆中』『寺泊御書』  二十八日佐渡 王着難塚原問答 一月十六日 文永八年十一月~文永九年二月執筆大 曼 荼  羅 當御身本の 四尊大月事図二顕十五日 二月十四日(三月八日着) 三月十三日 五月十二日 九月八日 九月十八日 十月十三日 私難 十一月十一日 私難 九月十二日 十 十一月月十一日日鎌配倉所発(塚原)へ 人開顕 五重相対 法開顕 五重(四種)三段 七月八日 三月二十六日 五月十七日 鎌倉着 身延着1282年弘安5年1274年文永11年61歳池上着53歳佐渡発1272年文永9年1273年文永10年51歳開目抄52歳1271年文永8年1264年文永元年50歳佐渡法難43歳小松原(東条)法難20年間実践し上行公表1263年弘長3年42歳伊豆流罪赦免 二月二十二日       塚 一原期のの配大所事から一谷邸へ移送

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