『法華経』に学ぶ
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語られた説法ではなく、仏弟子(聞き手)の欲求、或いは、その悩み、質問等に答えられた「方便説法」である、というのです。これを「随ずい他た意い」といいますが「他」とは仏弟子を指しますから、仏弟子の「意」に随って説かれた教え、ということです。また、仏弟子の質問に答えるという説法形式から「随ずい問もん而に説せつ(問いに随って、而して説く)」或いは「随ずい問もん而に答とう」ともいわれます。すなわち、釈尊の教えは数多くありますが、仏弟子の欲求、悩み、或いは質問の数だけ教えがある、といえるのです。例えば「風邪をひいた」という人には、風邪薬を処方し「胃腸の具合が悪い」という人には、胃腸薬を処方します。血圧が高い人には、降圧剤を施し、血圧が低い人には、強心剤を施すことと同じです。これを「応おう病びょう与よ薬やく」或いは「対たい機き説せっ法ぽう」といいます。 さてそうしますと、ここには大きな問題、或いは矛盾等が生じてきます。風邪の患者に胃腸薬を処方するのは、滑稽なことですし、高血圧の患者に強心剤を施せば、生死にかかわります。つまり「随他意」は、その当事者には、的を射た教えであったとしても、当事者にあらざる人にとっては、全く的はずれということになるのです。更には、姑息的であり、普遍的でないともいえます。すなわちそれは、成仏を許さない、成仏できない、ということを意味します。   ではなぜ釈尊は、仏弟子の側にたった「随他意」の教え、或いは「方便説法」をする必要があったのでしょうか。 『無量義経』に「し性ょう欲よく不ふ同どうなれば種種に法を説きき」とありましたが『方便品』では更に「釈尊は、無上の法=教えを成就したのであるが、その教えは余りにも崇高であり、仏弟子たちには到底理解できない。したがって、しばらくの間、方便-10-

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