『法華経』に学ぶ
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釈尊の「唯有一乗法」という言葉を非難、否定することにつながります。「諸宗無得道」の言葉を非難そして否定することは、釈尊の「正直捨方便」という言葉を非難、否定することにつながります。つまりここには、日蓮聖人の主張は、常に経説に依るものであることが確認できるのです。日蓮聖人の代表的著述『立正安国論』を拝読しゃ ょ  ますと「余はこれ頑愚にして、あえて賢を存せず。ただ経文について聊いささか所存を述べん」とあります。「余」とは日蓮聖人のことですが「自身は頑迷にして、愚かな存在であり、才覚は備えていない、したがって、自説を述べるのではなく、釈尊のお言葉=経文によって意見を述べる」ということです。また『守護国家論』にも「あえて自義をもつて是非を定むるにあらず」と同様の言葉があり、他書にも「専ら釈尊の遺誡に随いて諸人のび謬ゅう釈しくを糺ただすなり」とあります。これらの類似の表現は枚挙に品ぽん』の後半部分と第十六章『如来寿量品』そして、暇がありません。日蓮聖人は、同じ仏弟子として生きる人が、経文に依らずして「自見を以て正義となす」ことが看過できなかったのです。さて『法華経』の後半部分(第十五章~第二十八章)を「本門」といいます。中でも教えの根幹となる部分が説かれるのが、第十五章『じ従ゅう地じ涌ゆじ出ゅっ第十七章『分ふん別べつ功く徳どく品ほん』の前半部分になります。これを一品(寿量品)二半(涌出品後半、分別功徳品前半)といいます。そのテーマは「開かい近ごん顕けん遠のん」「久く遠おん実じつ成じう」また「開かい迹しゃく顕けん本ぽん」「発ほっ迹しゃく顕けん本ぽん」といい、肉体をもった釈尊の、三十成道という近き成仏の姿を開いて、久遠の過去に悟りを得た仏であることを明かします。さらに、その仏は永遠不滅であり、常にこの世に実在し、間断なく人々を導いていることを示すのです。-14-

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