『法華経』に学ぶ
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世せ間けん天てん人にん。ぎ及ゅう阿あ修しゅ羅ら。皆かい謂い今こん釈しゃ迦か牟む尼に仏ぶつ。し出ゅっし釈ゃく氏し宮ぐう。去こ伽が耶や城じょう不ふ遠おん。坐ざ於お道どう場じう。得とく阿あ耨のく多た羅ら三さん藐みゃく三さん菩ぼ提だい(ここにいる全ての仏弟子たちは、私が辺へん。ひ百ゃく千せん万まん億おく。那な由ゆ佗た劫こう(しかしながら、仏弟子これらのことについて『如来寿量品』で「一いっ切さい  ょ提樹下で瞑想し、無上の悟りを得た釈尊だとみて王子の立場を捨てて修行を志し、伽耶城近郊の菩いるでしょう)」と、仏弟子たちが認識している現在の釈尊の姿について述べられます。ところが、続く言葉は「然ねん善ぜん男なん子し。我が実じつ成じょう仏ぶっ已ち来らい。無む量りょう無むたちよ、私が無上の悟りを得たのは、実に無量無辺の百千万億那由他劫という、到底思惟することのできない、無限の時間が経過しているのです)」と、仏弟子たちの認識を打ち消す、まさに前代未聞、驚天動地のことが明かされたのです。 さて、ここに顕された仏を「寿量品の仏」「久遠の仏」あるいは「本仏」と称し、インドに肉体をもってお生まれになった釈尊を「迹仏」と称します。「迹」という字には、「あと、あしあと」などの意味が存しますから『如来寿量品』で顕された「本仏」が、インドに釈尊(迹仏)として登場されたということなのです。日蓮聖人は「本仏」と「迹仏」について「華厳経の台上十方・阿含経の小釈迦、方等・般若の、金光明経の、阿弥陀経の、大日経等の権仏等は、此寿量の仏の天月しばらく影を大小の器にして浮べ給うを諸宗の学者等近は自宗に迷、遠は法華経の寿量品をしらず、水中の月に実月の想をなし、或は入て取んとをもひ或は縄をつけてつなぎとどめんとす」つまり、諸経に説かれた阿弥陀如来、薬師如来、大日如来等の諸仏も、本仏が衆生救済のために姿を変えて登場したのであり、本仏は天の一月、迹仏は万水に浮かぶ月である、と解説くださるのです。-15-

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