『法華経』に学ぶ
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き教ょう河が沙しゃ等とうの菩ぼ薩さつ摩ま訶か薩さつ(ガンジス川の砂の数の六万ところで、迹門は「教えの統一」といいましたが、本門は「仏の統一」と表現できます。つまり『法華経』は「法(教え)」と「仏」を統一する経典であるのです。すでに『如来寿量品』で釈尊の久遠、いわゆる本仏の存在が明かされたことについて述べましたが、『法華経』の流れを見ますと、突然に釈尊の久遠=本仏が顕されたわけではありません。まず初めに、弟子の久遠が明かされることが確認できます。すなわち『じ従ゅう地じ涌ゆ出じゅっ品ぽん』の冒頭で、地の底より無数の菩薩が登場致します。経文には「六万恒ごう倍の数の菩薩)」とありますから、到底思惟することのできない数の菩薩が登場したのです。地の底から涌き出てきたところから、この菩薩を「地涌の菩薩」と称します。この菩薩が登場する縁由は、第十一章『見けん寶ほう塔とう品ほん』にありますが、紙数の関係化け是ぜ等とう衆しう」私(釈尊)は久遠の過去より、彼等を「り略ゃく開かい近ごん顕けん遠のん」或いは「り略ゃく開かい迹しゃく顕けん本ぽん」といい、弟で後に譲ります。釈尊は、これら無数の菩薩を「我が従じゅう久く遠おん来らい教導してきたのだと紹介なさいます。ここに弟子の久遠が明かされるわけです。古来よりこれを子の久遠を明かすに即して、師匠である釈尊の久遠を略して顕すことを意味します。ところが、弥勒菩薩をはじめとして、会座の仏      ゅ 弟子たちは地涌の菩薩が「釈尊の弟子である」ということ、更には釈尊が「久遠の過去より教化してきた」ということを信じることが出来ません。なぜならば「仏ぶっ得とく道どう甚じん近ごん悟りをお開きになられたのは三十才です。僅か四十年余りで、これら無数の弟子を育てることはできるのでしょうか)」また、眼前の釈尊は既に七十半ばの老比丘の姿であり、一方、地より涌出した所しょ成じょう就じゅ甚じん多た(釈尊がお-16-

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