『法華経』に学ぶ
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子し老ろう挙こ世せ所しょ不ふ信しん(父は少くして子は老いたる。菩薩方は、威風堂々としており、経文に「身皆金三十二相」とあります。すなわち、身は金色に輝き、三十二相という仏様と同様の素晴らしい相を具えていることが理解できます。つまり、師匠である釈尊よりも、弟子の方が大層立派に見えたということなのです。そこで弥勒菩薩は、このことについて「父ぶ少しょう而に   色  世を挙って信ぜざるところなり)」つまり、威厳があり徳を具えた地涌の菩薩が、釈尊の弟子だということを信じることができません。それはあたかも二十五才の青年が百才の老人に向かって「これは、私の息子です」と言い。また逆に、百才の老人が、二十五才の青年に向かって「こちらは私の父です」と言うことと同じではないでしょうか。これでは到底信じることは適いません。と釈尊に疑問を呈するのです。この疑問に答えられるのが『如来寿量品』にあたります。経題の『如来寿量品』に字を補足しますと『如来寿「命無」量品』となりますが『妙法蓮華経』に説かれた「如来」の「寿命」が「無量(永遠)」であることを明かす章と理解することができます。寿命が無量であるがゆえに、その教化も永遠に続き「地涌の菩薩」を久遠の過去に教化することができたのです。「地涌の菩薩」は本仏に教化を受けたところから「本ほん化げの菩薩」とも称します。『如来寿量品』の次の章は『分ふん別べつ功く徳どく品ほん』になります。「爾の時に大だい会え、仏の寿命の劫こっ数しゅ長じょう遠おんなること、是の如くなるを説きたもうを聞いて無量無辺阿僧祇の衆生、大だい饒にょう益やくを得つ」如来寿量品の教説を聞いた仏弟子たちは、本仏の寿命が永遠不滅であり、その教化活動は間断なく永遠に続くことを知り、大いなる福徳を得ました。という言葉から始まります。そして、その福徳の内容について、-17-

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