『法華経』に学ぶ
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ょう十二に分けて明示されます。経題の「分別功徳」とはこのことを意味したものと理解できます。ところで日蓮聖人は『法華経』の中でも「本門」の「正宗分」である第十五章『従地涌出品』の後半と、第十六章『如来寿量品』そして第十七章『分別功徳品』の前半、いわゆる「一いっ品ぽん二に半はん」を重要視されます。ことに「一品二半」の中心となる『如来寿量品』ょ   在については「法華経二十八品の肝心たる寿量品」「一切経の中に此寿量品ましまさずば天に日月無く、国に大王無く、山河に珠無く、人にた神ましいのなからんがごとく」「法華経は一代聖し教ぎうの骨髓なり。自我偈は二十八品のたましひなり。三世の諸仏は寿量品を命とし、十方の菩薩も自我偈を眼目とす」等と、その重要性についてことのほか喚起されるのです。 それは「久遠実成」という、思惟することのできない久遠の過去に悟りを開き、そして永遠の寿命を有し、過去済し、全ての仏を統一する釈尊、いわゆる本仏の存在が、明らかにされているからにほかなりません。日蓮聖人は、この本仏が信仰の対象、すなわち「本尊」であるとお定めになられました。『報恩抄』には「日本乃至一いち閻えん浮ぶ提だい一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」とあります。「日本乃至一閻浮提」とは、日本に止まらず全世界ということですから、全ての人々は、この「本門の教主釈尊」つまり本仏を「本尊」としなければならない、信仰の対象としなければならない、と断定を下されているのです。 さて絶対帰依の対象となる本仏は、私たちと如何なる関係にあるのでしょうか。第三章『譬喩品』には「今此の三界は皆これ我が有なり(主徳)、その中の衆生は悉くこれ吾が子なり(親徳)、而も今この所は諸の患難多し、ただ我一人のみ能く救護・現・未来と三世にわたり衆生を救-18-

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