『法華経』に学ぶ
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をなす(師徳)」と、私たちにとって、主人であり、親であり、師匠であるとあります。これを「主師親の三徳」といいますが、主徳とは衆生を守護する徳、師徳とは衆生を導き教化する徳、親徳とは衆生を慈愛、養育する徳をいいます。またこの「主師親三徳」は『如来寿量品』の偈頌『自我偈』の経文では「我此土安穏満」が「主徳」に、「常住此説法」「常説法教化」が「師徳」に、「我亦為世父」「為治狂子故」が「親徳」にあたるといえましょう。日蓮聖人は、本仏について「釈迦如来は我等衆生には親也、師也、主也。我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども、親と師とにはましまさず。ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる。親も親にこそよれ、釈尊ほどの親。師も師にこそよれ、主も主にこそよれ、釈尊ほどの師主はありがたくこそはべれ」と絶対の随順、絶対の帰依を表明せられ、更には「一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船る師であり、真実を見通す智慧の眼を持ち、苦悩に満ち溢れた此岸から、悟りの彼岸へと渡してくださる大きな橋であり、また、悟りの世界へ確実天人常充に渡してくださる船長であり、無上の幸福を与えて下さる仏である、と認識されておられるのです。ところで、有限の時間そして空間に生きる私たちには、理論的に「久遠」あるいは「永遠」「無限」などということを理解することはできないといわれます。確かに理解することは不可能かもしれません。そうすると「一品二半」の教説は雲散霧消してしまいます。理解するための手立ては、本仏釈尊に対する「絶対の信」「大信力」これよりほかにないでしょう。師・大福田等なり」と、一切の人々を導く偉大な-19-    

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