『法華経』に学ぶ
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 ょの阿羅漢の中の阿難尊者はなき(泣)ながら如是我聞と答給ふ。余の九百九十九人はなくなみだを硯の水として、又如是我聞の上に妙法蓮華経とかきつけし也。」と述べられますが「如是我聞」の「我」とは、釈尊十大弟子の一人であり、常に釈尊の傍に侍り給仕をつづけた阿難尊者であるという認識です。 「如是」とは釈尊の教え、悟りを意味します。またその教えを私たちは、清浄な気持ちをもって聴聞し、信をもってその教えの世界に入ることができるという意味があるのです。もし信がなければ、教えの大海に入ることはできないということなのです。天台大師は「如是とは、釈尊の説法を信じ、その教えに随順する言葉である」と解説しています。 ところで、当然のことながら私たちは、釈尊の説法の会座には同席しておりません。従って釈尊の声を直接聴いていないことは自明のことです。先述の如く 「如是我聞」の「我」は、釈尊の説法を直接拝聴した阿難尊者ですが、信仰の上では「自分のことである」との思いが必要であると思われます。ご承知のとおり『方便品』は「告舎利弗(舎利弗に告げたまわく)」と釈尊は舎利弗尊者に語りだされますが、これもまた「自分のことだ」「釈尊が私の名前を呼び語りだされた」との思いが必須であると思われます。それ故に日蓮聖人は「法華経は釈迦如来のお御んここ志ろざしをか書きあらし顕わて、此この音おん声じうを文字とな成した給もう。仏の御心はこの文字に備そなわれり。中略字を拝見せさせ給たもうは、し生ょう身しんの釈迦如来にあひ進まいらせたりとおぼしめすべし。」と訓戒くださるのです。後に展開する第十一章『見宝塔品』で釈尊は「誰か私の亡き後に、この教えを広める者はいないか」と再三再四にわたって呼びかけられますが、日蓮聖人はこの要請は自分にかけられたものである、と認識され身命を賭して布教せられたのです。法華経の文-21-

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