『法華経』に学ぶ
38/188

のです。別の表現を用いれば、一つの立場に立って固定観念にとらわれる、つまりは、進歩の可能性も退歩の可能性も否定したといえるでしょう。ところで私たちは日常生活の中で、自身の、あるいは他者の可能性を否定することはないでしょうか。先述のとおり、仏弟子の中でも二乗(声聞・縁覚)とよばれる人たちが成仏できないといわれた一因に、可能性を否定したことが挙げられますから、よく注意する必要があります。善きにつけ、悪しきにつけ、大いなる可能性を持っていることを学ぶ必要がありましょう。さて一方の、菩薩と称せられる人たちは、無上の悟りを求め修行を続け、且つ社会との関係性を保ち、他者を導くことに喜びを感じる修行者です。比叡山の開山、日本天台宗の開祖である伝教大師最澄の著述『山さん家げ学がく生しょう式しき』に「悪事を己おのれに向かえ好事を他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」とありますが、まさに菩薩の思考、そして行いを表現したものです。菩薩は、智慧もあり慈悲も備えている、一方二乗は、智慧はあるが、慈悲に欠けるとも言えます。つまり人は「賢くあれ、そして優しくあれ」ということであろうと思われます。ところで先述のとおり『序品』の舞台では、釈尊は説法=お言葉を発することはありませんでした。『方便品』に至って釈尊は説法を始められ、仏弟子たちはそのお言葉に浴することができたのです。その様子を冒頭には「爾時世尊。従三昧安詳而起。告舎利弗。諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。一切声聞。辟支仏。所不能知」とあります。読者のみなさまの中には、暗誦できる方も大勢おられることでしょう。ところが漢文のまま、すなわち真読で読むと意味を理解すること、あるいは、その情景を思い描くことは至難ではないでしょうか。 私たちは勤行の際に、ほとんどの場合真読で拝-30-    

元のページ  ../index.html#38

このブックを見る