『法華経』に学ぶ
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俟まちません。その仏弟子たちが理解できないのでもない話」になってしまいます。何より舎利弗を始めとする仏弟子たちは、声聞やひ辟ゃく支し仏ぶつ(縁覚)といわれる人たちです。その知識や智慧、そして修行は私たちよりはるかに優れていることは論をあれば、当然私たち凡夫には、釈尊が体得された深遠なる世界を知り悟りに至ることは、まるで不可能なこととなってしまいます。ところで「方便」の意味について「釈尊をはじめとする諸仏が、人々を教え導くために用いる良き手立て、巧みな手段」と述べましたが、「理解できない」と言われた由縁もそこにはあるように思われます。それでは続いて経文に訊たずねてみましょう。 「あなた達には理解できない、知ることができない理由についてお話ししましょう。私は過去の世において、百千万億という数えることのできないほど多くの仏に、親しみ近づきました。 そして数多くの仏に仕え、全力を尽くし弛たゆむことはありませんでした。多くを学び、さまざまな修行に励み、その名声は普あまねく聞こえることとなりました。そしてついに真に素晴らしい未曾有の法を悟り智慧を獲得しました。私はその智慧を駆使してさまざまに教えを説き、数多くの人々を導いてきたのです。その意趣について、あなた達が理解することは難しいのです。」「舎利弗よ、私が悟りを得て已来、さまざまな事  実を示し、ある時にはさまざまな譬え話を用いて説法してきました。無数の巧みな手段を用いてあなた達を導き、物事に囚われる心から解放してきたのです。私にそれらのことができるのは、あなた達を導く良き手立てと、ありとあらゆる事象の本質を見極める優れた智慧を、完璧に具そなえているからなのです」 「舎利弗よ、私の知見は横に広大であり、そして縦に深遠なのです。人々の幸福を願う量り知れない心があり、教えを説くについても妨げとなるも-33-

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