『法華経』に学ぶ
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釈尊は、諸仏の智慧そして悟りの世界を称嘆し、それは「舎利弗を始めとする仏弟子たちの智慧では、遙か及ばないところです」と繰り返し告げられます。そこには、以前にも増して、釈尊の言葉に耳を傾けさせようとする思いがありました。またそれは、仏弟子の受け皿を空にし、すべてを速やかに受け入れさせる意味合いがあるのです。例えばここに、二つのスポンジがあります。一つは、まるで水を含んでない乾燥したスポンジ、そしてもう一つは水を含んだスポンジです。新たに水を吸う場合、どちらのスポンジが適しているかといえば、当然乾燥したスポンジです。すでに水を含んでいるスポンジで、新たに水を吸うことは至難で、また乾燥したスポンジと比べると、その量は少ないものになります。あるいは、ここに同じ容量のコップが二つあります。片方のコップは空で、もう片方のコップには水が半分注がれています。どちらのコップに新たに多くの水を注ぐことができるかといえば、当然空のコップです。確かに注ぎ終えれば、その量は同一ですが、混じり気のある水と、混じり気のない新鮮な水の違いがそこには存します。私たちが先生あるいは師匠から、新しく教えや技術などを学ぼうとするとき、時として自身の価値観や先入観、更には積み重ねてきた経験や知恵、知識などが弊害となり、正しく学べないことがあります。誤解を恐れずに言えば、学ぶ者、教えを請う者の姿勢として、無条件に師となる人の教えを素直に受け入れることが必須と思われます。ですから何はさて置き「師」を選ぶということ、あるいは「良き師」に出会うということは、非常に大切なことであるといえましょう。方便品第二③-36-   

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