『法華経』に学ぶ
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が「如是因」となり、『みのぶ』誌という「如是縁」を通し読者の目にするところ「如是果」となります。そして、読まれる「如是報」となるのです。はじめの「如是相」(本)から「如是報」(末)までの九つが、一貫して欠けることなくどんなものにでも、どんな場合にでも、いわゆる「諸法」には具わっているのです。これを「本末究竟等」といいます。生物に限らず、車やスマートフォンにも「如是相」から「如是報」まで具わっています。わたしには「相」がない、という人はいないでしょうし、「相」はわたしですが「性」はAさんのもので、「体」は車などという人は存在しません。ところで「因果関係」といいますが、十如是をみれば因と果の間に「縁」が入っています。同じ「原因」であっても「縁」によって「結果」は変わってくるということです。たとえば、マッチを擦るという行為によって、火が点くという結果がありますが、これは大気中という縁があるからです。水中という縁に触れれば、たとえ同じ行為(原因)であっても、火が点くという結果は望めません。「縁」によって「果」「報」は変わるということです。ですから良い「因」であっても悪い「縁」に触れれば、悪い「果」そして「報」が訪れるということ、また逆も然りです。さて釈尊にも、私たちにも十如是が具わってい   るのです。十如是が具わっているということについては同じですが、釈尊は「何としてでも人々を導き入れたい」という慈悲と智慧、衆生教化の十如是になりますが、私たちの十如是は、迷い・欲望の十如是という違いが生じるのでしょう。-39-

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