『法華経』に学ぶ
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るにもかかわらず修得したと思い、そして悟ったと思い込んでいる人たちで、すなわちそれは、宗教的な罪が甚だ深い存在だということなのです。さて釈尊は黙ったままで、立ち去る五千人を引  き止めることはなさいませんでした。「舎利弗よ、この席には真面目で純粋に法を求める人たちだけが残りました。あのように思い上がった人たちは、この席には不釣り合いで、むしろいない方がいいのです。さあ舎利弗よ、心して聞きなさい。あなたのために真実を明かしましょう。」 「釈尊よ、どうぞ説法をお願い致します。」ここに舎利弗の四回目の説法要請があり、いよいよ釈尊の説法が始まるのです。 ところで、釈尊が舎利弗の要請を三度も退け、説法を拒絶されたのは、舎利弗に信の発露を求めたからにほかなりません。その意味合いからしますと、五千人の退席者は信の欠如であったと言えましょう。「信は価あたいの如く、解げは宝のごとし」という言葉があります。宝を手にしようと思えば、それに見合った価値あるものを出す必要があるのと同じで、釈尊の言葉を理解しようと思えば、それ相応の信を生じなければ、理解することは適わないということなのです。智慧第一との誉れの高い舎利弗ですから、はじめは釈尊の説法を「智」で理解しようとしました。経文には「我、今自ら智において、疑惑して了さとること能あたわず」とあります。つまり「智慧者の私でさえ、釈尊のお言葉は、疑念を生ずるばかりで理解することができません」というのです。しかし、二度目の説法要請に「智」という言葉はもちろん「疑」という言葉も見当たりません。さらに言葉の変遷を注意深く拝しますと「き敬ょう心しん」が「き敬ょう信しん」に、そして「大歓喜」という言葉が見られるのです。 私たちが教えを学ぼうとするときに、もっとも弊害となるのが「慢心」でありましょう。ソクラテスの言葉に「無知の知」とありますが「自分は-46-

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