『法華経』に学ぶ
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何も知らない」と認知することが学びの第一歩と思われます。孔子は「民たみは之に由よらしむべし、之を知らしむべからず」と、国のトップリーダーの考えを微に入り細に入り、民衆に理解させ、周知納得させることは難しいことである。だからトップリーダーは、この人が言うのだから間違いない。この人を信じよう。あるいは、是が非でもこの人に従おうという「信」を民衆から得ることが大切であると言います。「民、信無くば立たず」とは有名な言葉ですが、これも「信」の大切さを教えたものです。たとえ兵が有能で勇敢であろうとも、たとえ食が足りていようとも「信」が無ければ治国はままならない。何はさておき「信」が先に立たなければならないことを教えたものです。 さて、釈尊の三度にわたる説法中止の宣告と、舎利弗の四度に及ぶ説法要請を「三さん止し四し請しう」(三が四回説法を要請)といいます。後に展開される止・釈尊が三回説法の中止を宣告。四請・舎利弗四し誡かい」(四請・弟子の誓いと説法要請。四誡・釈尊特どくの大事」といわれ、この後には未曾有の大切な第十六章『如来寿量品』の始まりにも釈尊は、弥勒菩薩をはじめとする大衆に向かって「これから説く言葉を信じなさい」と三度誡め、仏弟子たちは三度「釈尊のお言葉を信じ奉ります」と誓いの言葉を述べます。そして重ねて釈尊が誡められ、仏弟子が誓いの言葉を述べたのちに、説法が始まるという情景が描写されています。これを「四しし請ょうの訓戒)といいます。『方便品』の「三止四請」、そして『如来寿量品』の「四請四誡」の儀式は「奇き教えが開示されるので、一言一句聞き漏らさぬよう神経を研ぎ澄まし「大信力」をもって聞く必要があるということなのです。ょ-47-

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