『法華経』に学ぶ
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甚じん深じん微み妙みょう法ほう、ひ百ゃく千せん万まん劫こう難なん遭そう遇ぐう、我が今こん見けん聞もん得とく受じゅ持じ、願がん解げ如にょ来らい真しん実じつ義ぎ(無上甚深微妙の法は、百千万劫は、大変に難しいことです。妙法という教えに出遭うことは、まさにそれと同じです、と告げられたのです。ところで日頃わたしたちは勤行の際に『開経偈』という偈文を唱えますが、その冒頭に「無上甚深、微妙の法は、百、千、万、劫にも遭い奉ること難し」とあるのは、このことを言い表したものと理解できます。余談になりますが『開経偈』の作者については諸説あり、明確にはなっていません。また「無むじ上ょうにも遭い奉ること難し、我今見聞し受持することを得たり、願わくは如来の真実義を解せん)」までは宗派を問わずに唱えられています。日蓮宗では「願解如来真実義」を「願解如来第一義(願わくは如来の第一義を解せん)」と唱え、さらに以降に「至極大乗不可思議(至極の大乗思議すべからず)値遇頂戴(値遇し頂戴せん)」という偈文を加えて唱えています。この形に整えられたのは、近世日蓮教学の大家といわれた優う陀だ那な院いん日輝上人(一八〇〇~一八五九)といわれています。さて釈尊は『妙法蓮華経』という教えに出遭う   ん。わたしの説くところに、嘘いつわりは微塵もことが、極めて至難であることを教えられたのち、舎利弗を始めとする大勢の弟子たちに告げられました。「あなた達は、まさに信じなければなりませありません」と重ねて信の要請をなされ、仏の言葉は常に真実であることを強調なさいます。そして次に諸仏の説法の巧みさについて称賛なされたのち、釈尊を始めとする諸仏がこの世に出現する由縁、その教えの尊さ、さらには教えが説かれる目的等(これを一大事因縁といいます)について明かにされるのです。 経文には「諸仏世尊は、唯ただ一大事の因縁を以もっての故に、世に出現したもう」とあります。釈尊-49-

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