『法華経』に学ぶ
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ょうをはじめとする諸仏が、この世に現れるのは「一大事の因縁」があってのことだというのです。偶然であるとか、たまたまとかではないのです。つまりは、必然であり、なすべきことがあって現れた、ということです。「唯一大事の因縁を以って」とありますから、目的はただ一つで「一大事」ですから、何度もあるわけではありません。さて、その「一大事因縁」とは何でしょうか。釈尊は言葉を続けられます。 「諸仏世尊は、衆生をして仏ぶっ知ち見けんを開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に世に出現したもう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして、仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして、仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもうとなづく。」この箇所は『欲よく令り衆しう』として読誦する一節ですから馴染み深いことと思います。ちなみに『欲令衆』は一章として独立したものではなく『法華経』二十八章中、第二章『方便品』、第三章『譬喩品』、第十章『法師品』、第十一章『見宝塔品』の四章の要文を抜粋し構成されています。ここで確認できることは「一大事因縁」とは、私たち衆生をして「仏知見=物事の本質を正しく見極める仏の智慧」を「開かしめ」、「示し」、「悟らしめ」、「入らしめる」ことだということです。これを「四し仏ぶっ知ち見けん(開かい仏知見、示じ仏知見、悟ご仏知見、に入ゅう仏知見)」といいますが、これこそが「一大事因縁」で諸仏がこの世に出現される本意(諸仏出世の本懐)だということなのです。 仮に私たちに「仏知見」が具わっていないとしたならば、それを開かしめることはできませんし、そうなれば当然「示し」、「悟らしめ」、「入らしめる」こともできません。また諸仏のそうした行為-50-  ゅ

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