『法華経』に学ぶ
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は、まるで徒労となってしまいます。するとここには、私たちの中には諸仏と同じ「知見」が本来具わっていることが確認できるのです。諸仏と同様の「知見」を私たちが具えていればこそ、諸仏はそれを「開かしめ」、「示し」、「悟らしめ」、「入らしめる」ためにこの世に出現し、説法なさるのです。ところで、釈尊のお言葉を注意して拝見しますと「我は」、「私は」などといった一人称ではなく「諸仏世尊は」という三人称で表現されていることに気づきます。「三世十方の諸仏」という言葉がありますが、三世は過去、現在、未来という「時間」の流れを、十方は東・西・南・北の四方と北東・南東・南西・北西の四隅、そして上・下という「空間」の広がりを表しますから「三世十方」とは、無限の時間と無辺の空間ということになります。その無限の時間と無辺の空間に存在する仏ですから「諸仏」とは、すべての仏ということになります。つまり、釈尊一人に限らず、すべての仏、ありとあらゆる仏の「一大事因縁」とは『妙法蓮華経』を説くことにあり、それによって私たちに本来具わっている「仏の知見」を「開かしめ」、「示し」、「悟らしめ」、「入らしめる」こと、つまりは、私たちを諸仏と同じ真理と智慧と慈悲に満ち溢れた世界に導き入れることにある、と理解できるのです。また「因縁」という言葉に注目しますと、因縁    という言葉には「関係」という意味が存しますから、その意味を取れば、釈尊を始めとする諸仏と私たちとの間には、決して切り離すことのできない必然的な関係が、過去、現在、未来と一貫してあることを教えるために、諸仏はこの世に現れるといえます。-51-

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