『法華経』に学ぶ
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なたは真の仏弟子です。成仏することができるのです」と認可をうけたわけですから、その喜びは筆舌に尽くしがたく、わたしたちの想像を遥かに超えるものだったことは、想像に難くありません。ところでこうして『方便品』の教説を学んでいきますと、日蓮聖人の「釈尊の本意は『法華経』にあり、成仏は『法華経』でなければならない。すべての人は『法華経』を信仰すべきである」との主張が、日蓮聖人の勝手な解釈によるものでなく『方便品』の教説によるものだということが確認できます。そうすると、その主張に対して批判、あるいは非難することは、釈尊を批判し非難することにつながると解釈できるのです。今日でもわたしたちが、日蓮聖人のお言葉を取り次いで伝えると 「そんな話は信じられません。釈尊は、すべての人を成仏させようと教えを説かれたわけですから、その釈尊が成仏できない教えを説かれるはずがないでしょう。それも四十二年という長期にわたって、いくつも成仏できない教えを説かれたというのですか。数多くの教えがあるのは、それぞれにあった教えを選ぶためで、何も『法華経』に限らなくてもいいでしょう」「たとえば、成仏を山頂にたとえるとしましょう。成仏という山頂は一つだけれども、登山道はいくつもあります。その登山道のどれを通っても山頂に到達するではありませんか」「大阪から東京に行く交通手段にしても、飛行機、新幹線、バス、自家用車などいくつもありますが、到着が早い遅いとの差はあっても、どの交通手段を選んでも東京に行けますよ」等と難色を示す人がおられます。なるほど、どれも正論のように聞こえますし、ことさら間違った意見のようには思えません。しかしそれは、その人の意見、あるいは考えであって、説き主である釈尊の意見でないことは『方便品』の教説を見れば明らかです。-55-   

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