『法華経』に学ぶ
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られる姿を見てきました。ところが私たち声聞の弟子は、成仏を認められることはありませんでしたので、仏の智慧というものは私たちには無いと思い、悲嘆に暮れていました。それは、一人で山林に入り樹の下に座っている時も、歩いている時も毎つねに思っていたのです。なぜ釈尊は小乗という教えで私たちを導かれるのかと。ところがそれは、釈尊に過失があるのではなく、私たちに過失があることが理解できました。私たちは、釈尊が広大深遠な智慧をもとに、さまざまな教えを説き、方便をもって導かれるということを知らなかったのです。ですから初めて釈尊の説法を拝聴したときに、これが真実で悟りだ、と思っていたのです。」 舎利弗は、釈尊の優れた教導の方法を知ることもなく、これまでの自身の修行のあり方や、方便の教えで満足しながらも、成仏できないことの自責の念を述べたのでした。しかし、「私は釈尊に従い、これまでに聞いたことのない素晴らしい教えを拝聴できる機会を得ました。それにより数多くの疑問を解消することができ、後悔の念も絶つことができたのです。今の私は心身共に安らかで、まことに穏やかであります。」この時の舎利弗の声は、喜びに震えていたでしょうし、普段より高い声だったのではないでしょうか。それは「踊躍歓喜」という言葉をみれば、想像に難くないことです。さらに舎利弗は続けます。「今日はじめて知ることができました。それは、私は真の仏の子であるということ。私は釈尊の教えを拝聴し、それに従うことによって、仏の口から生まれ、真理によって生まれ変わったのです。私は、仏の教えの一端を得ることができました。」-59-   

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