『法華経』に学ぶ
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 『方便品』を拝聴した舎利弗は大いに喜びました。それは、利己的で自身の修行のみに執着し、さらには低い理想で満足して自身の可能性を見限る、いわゆる声聞という弟子ではなく、真の仏弟子であると覚醒したからです。喜びに満ち溢れた舎利弗は「ただいま教えを拝聴し、その教えに従うことによって、私は仏の子として仏の口から生まれ、そして真理によって生まれ変わりました」と、その心情を釈尊に告白したのでした。舎利弗はさらに百一句、二十五偈半の詩句に託してその思いを述べます。 すでにお話したことで繰り返しになりますが、経文は散文体で書かれた「長行」と、韻文体(詩句)いわゆる四字、五字、七字等で調えられた「偈げ頌じゅ」とで構成されている章があります。偈頌に入る前、すなわち長行の末文には必ず「重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて」とあります。つまり「重ねて」ですから「もう一度」ということで「此の義」とは長行で説かれた内容をいいますから「詩句に託してもう一度要点を説く」ということです。もちろんこの場合は、説き主である釈尊の立場からですが、説法を拝聴した仏弟子もまた、長行に続き詩句に託し、重ねて釈尊にその理解した内容について告白をいたします。『譬喩品』の冒頭では『方便品』を拝聴した舎利弗の姿を「踊躍歓喜」「心しん懐ね踊ゆ躍やく(心に踊躍を懐き)」と表現されていますから、身も心も歓喜に満ち溢れた舎利弗は、さらに重ねて詩句に託し、その喜びや理解の内容を師匠である釈尊に伝えずにはいられなかったのです。 ところで、先章の『方便品』の末文近くに「聞法歓喜讃乃至発ほつ一いち言ごん(法を聞いて歓喜し讃ほめて、  譬喩品第三②-60-

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