『法華経』に学ぶ
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乃至一いち言ごんも発ほっせば)」とあります。つまり、法(教え)を聞いて「素晴らしい、有難い、尊い貴重な教えだ」と歓(喜)びを実感したならば、そのことについて一ひと言ことでも発言したくなる、というのです。そうすると、私たちが『法華経』や日蓮大聖人の教えを学び、そして取り次いで話そうとするときには、当然のことながら順序として先ず「聞法」があり、そして「歓喜讃」が起こる。そこで初めて「発一言」、すなわち「この素晴らしい教えをぜひ人にも伝えたい」「話さずにはいられない」という気持ちになれるということでしょう。「心はたらけば身うごく」と日蓮大聖人のお言葉にありますが、それは自身の「信仰を語る」あるいは「信心を語る」ということではなく、自身の心身共に満ち溢れる「信心が0語る」「信仰が0語る」世界であると思われます。 たとえ「聞法」があったとしても「歓喜讃」という気持ちにならなければ、あるいはその気持ちがなければ「伝える」「話す」という行為には出ないと言えましょう。また、たとえ話したところで「歓喜讃」が伴わなければ、それは無味乾燥としており、単なる言葉の羅列であって、恐らく相手には何一つとして伝わるものは無いでしょう。つまり『法華経』や日蓮大聖人の教えを伝える原動力は「聞法」によって生じる「歓喜讃」にあると思われるのです。それでは、舎利弗が詩句に託し釈尊に告白した言葉を訊ねていきましょう。「釈尊のお言葉を拝聴し、未曽有の真理について理解をいたしました。私の心身は喜びに満ち溢れ、今や疑問は何一つありません。」 「釈尊のお言葉は、まことに貴重なものであります。またそのお言葉は、生きとし生けるもののすべての悩みを取り除いて下さいます。」 先の長行での告白と同じく、釈尊の真実説法=『法華経』説法にまみえることができ、自身が真の-61-   

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