『法華経』に学ぶ
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仏弟子として生まれ変わった喜びを述べます。歓喜に満ち溢れた舎利弗の言葉を威厳と慈悲に満ち溢れた釈尊が、喜びの面持ちで聞かれるお姿が想像されます。 「私は本来仏の子であり、迷いなき境地に到達していながらも、将来に無上の教えを説くことはないでしょう。」 「私は釈尊のように尊い相や、偉大で不思議なる力、さらには尊い功徳など何一つ具えていません。」 「私が一人で歩き修行をしている時も、釈尊は大勢の人々を前に説法をなされ、その名声はあまねく天下に満ち、生きとし生けるすべてに、大いなる幸福、功徳をお与えになっておられました。ところが私は、自分にはこのような幸福や功徳は無縁のもので、自身のことを欺いてきた、と思っておりました。私は昼夜問わずにこのことを考え、また釈尊にお尋ねしたいと考えておりました。それは、私には仏になる可能性があるのでしょうか、それともないのでしょうか、ということです。」「私は間違った見解に執着していました。それがために外道の師となっていたのです。」舎利弗は再度『法華経』を拝聴するまでの過去を振り返りました。そして、教えに導かれながらも中途で満足して、最高の悟りを得たと錯覚していたこと。さらには誤った見解に陥り、釈尊から成仏の保証を受けられなかったことなどを悔いるのです。このように舎利弗が赤裸々なまでに自身の嘆きや過ちを吐露できたことは、かけがえのない師匠釈尊に対する絶対の信があったからで、さらには『法華経』を拝聴することができた喜びが、すなわち「聞法歓喜讃」が実に大きなものであったからに他なりません。舎利弗は続けて告白します。 「初めて『法華経』を拝聴したとき、私の心は大いに驚くとともに疑念が生じました。もしかするとこれは、悪魔が釈尊になりかわって説法をし、私の心をかき乱しているのではないだろうか、と-62-  

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