『法華経』に学ぶ
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考えたのです。」なぜ舎利弗は『法華経』を拝聴し、そして成仏を保証されたにもかかわらず、疑念を生じ悪魔が釈尊になりかわった、と訝いぶかしく感じたのでしょうか。そのことについて日蓮大聖人は「釈尊は、舎利弗をはじめ二乗といわれる仏弟子たちに、成仏できないと説いてこられました。それは一言、二言、一日、二日、一か月や二か月、さらには一年や二年のことではありません。また、一つや二つの説法だけではなく、四十余年の間に大勢の人々を前にして説かれた数多くの説法のなかで、一言たりとも成仏をお認めになられたことはないのです。ところが、このたび『法華経』の説法では「声聞、縁覚の二乗も将来成仏できる」とお説きになられましたから、誰も信じることができずに、会座に集う人々はみな一様に、悪魔が釈尊になりかわり『法華経』を説いているのだろうか、などと疑問をもちました」と解説下さいます。「し焦ょう種しゅ破は石せき」すなわち、焦(炒)った種が芽を吹つまり、釈尊が三十歳でお悟りを開かれたのち、七十二歳に至るまでの間、あちらこちらでなされた四十余年の説法=教えと、このたび霊鷲山でなされた『法華経』の説法=教えとでは、天地雲泥の差があったからです。釈尊はことあるごとにかないように、あるいは破れた石が元の形に戻らないのと同じで、二乗もまた成仏することがない、と長年にわたり叱責し続けてこられたのです。ところがこのたび、舎利弗をはじめ二乗といわれる仏弟子が「成仏できる」と説かれたわけですから、舎利弗にとっては有り難いことであると同時に、大変な驚きであり、まさに驚天動地、青天の霹靂であったのです。-63-   

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