『法華経』に学ぶ
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 『方便品』を拝聴した舎利弗は、歓喜踊躍しましたが同時に疑念も抱きました。その疑念とは「悪魔が釈尊になりかわり『法華経』を説いているのだろうか」ということでしたが、それは釈尊が菩提樹下でお悟りを開かれてから以降の四十二年間の説法と、只今の説法の内容があまりにも違いがあったからなのです。舎利弗はさらに言葉を続けます。 「釈尊は、さまざまな謂いわれや譬え話をもって巧みに説法くださいます。そのお心は誠に安らかで大海のように穏やかであります。私は教えを拝聴して、今やすでにその疑念はことごとく消え去りました。」 「釈尊は教えてくださいました。それは、過去に   登場した数多くの仏も、みな同じく巧みな方便をもって人々を導き、最終的に真実の道を明かしてくださることです。また、現在の仏も未来の仏も、そしていま私の目の前におられる釈尊も、同じ教化の方法をとられるということです。」「釈尊は真実の道をお説き下さいます。ところが悪魔にはそのようなことは、まるで不可能です。このことから私は、はっきりと理解することができました。悪魔が釈尊の姿を現わしているのではない。それは私が疑念を生じたが故に、悪魔の仕業だと思い込んでいたのです。」「私の心は歓喜に満ち溢れ、積年の疑念も雲散霧消し、仏の智慧の中に安住することができました。私は将来必ず仏になり、天人に敬われ、正しい教えを弘めて数多くの菩薩を教化いたします。」 このようにして舎利弗は、釈尊に対して疑念を抱いた自己の非について素直に告白したのです。譬喩品第三③-64-

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